ときめき☆道楽(文月)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

2009年11月

邱さんは1948年に台湾で起きた2・28事件の際
国連に請願書を出したことをきっかけに香港に亡命した。

2・28事件から亡命までのことを
書いたのが「濁水渓」で、
香港に亡命した後のことを書いたのが「香港」だ。

初めて2作を読んでみると、
主人公が邱さんにダブるのだった。
特に「濁水渓」に出てくる男性二人は
どちらも邱さんの分身のような気がした。

これらを読んだ翌日、ふとテレビをつけると
NHKのBSで「日めくりタイムトラベル」という番組をやっていて、
これは昭和のある1年にスポットを当てて
当時のニュースや映像を数人のゲストで見て
年寄りは懐かしがったり
若者は新発見したりする番組なのだが
昭和31年を取り上げていた。

まさに若き邱さんが「香港」で直木賞、
石原慎太郎都知事が「太陽の季節」で芥川賞を
とった年である。

「受賞者で写真を撮ると、
石原さんが足を大また開きにして
何てはしたない、と話題になったけど
そのおかげでこちらはかすんでしまった」と
邱さんが以前、邱友会で言っていたが
その貴重な写真がばばんと出された。

電車の「やってはいけません」の注意ポスターみたいな、
3人がけの座席の左側に広々陣取った若者とでも
いうべき石原氏。
真ん中の新田さん、右側の邱さんはどことなく
窮屈そうに座っていた。

「太陽の季節」はその後、映画化され、
若者の風俗、一つのスタイルをつくり上げる。
番組の中心はそちらに移っていった。

石原裕次郎は今から見ると
どおってことない不良の兄ちゃんだが
まじめに飽きた若い人の
気持ちにぴったり合って受けたのだろう。

若い人たちは「へーえ、当時はこれが格好よかったんですか」と
口では言うけど、目は冷めていた。
この後、「太陽の季節」を読んだり見たり
する気もなさそうだ。
はやりものって、そんなもんだ。

昭和31年は、経済白書が「もはや戦後ではない」と書き
国会にはデモが、海には「太陽族」が押し寄せ
新しい時代が開かれたようだったが
同時に水俣病という1章も加えられていた。
遺骨収集船がたくさんの白木の箱を積んで帰ってきて
多くの女性たちが突っ伏して泣いていた。

当時私は生まれていないが、
父がまさに青春を送っていたとき、
邱さんが受賞した昭和31年に
目が離せなくなって、
最後まで番組を見てしまった。

ある日、茅場町の古本屋で
「香港・濁水渓」と「邱飯店のメニュー」
(ともに中央文庫)を見つけた。

「濁水渓」はことしのお正月、
京王プラザ百貨店の古本市で初版本が
1万円で売っていたが、手が出なかったので
大変ありがたかった。

小説の方は後で腰を据えて読むとして、
エッセイ集の「邱飯店のメニュー」をぱらぱら見ると
若き邱さんが先輩小説家の白井喬二さんに
アドバイスを受けた話があった。

「小説というものはピンと弓を張ったように、
初めから終わりまで緊張しどおしの
書き方ではいけません。
ところどころ遊びがあって、
息をつくところがあると、
ピンと張ったところが生きてくるのです。」

そのときは何のことかわからなかった
邱さんだが、何十年かたって
「濁水渓」「香港」を読み返してみて

「ひたむきに走り続けているような感じで、
若さと情熱に溢れているが
読んでいるうちにだんだん息苦しくなってくる。
なるほどこのことだな、と
この年になってやっと
理解できるようになってきた。」
とあった。

本編を読む前から楽屋話を聞いたような
変な、不思議な気がしたが
私は邱さんの小説は「西遊記」しか
読んだことがなかったので
期待が高まるのだった。

「邱永漢の予見力」、
巻末の戸田さん渾身の「略年譜」を見ると
邱さんは全く手の届かない人だみたいだ。
私がよちよち歩きのころに
「邱永漢自選集」全10巻を出し、
言葉を覚えたころには、台湾政府から
三顧の礼をもって迎えられている。

こんなに偉い人なのに、投資考察団に参加したときは
一緒にご飯を食べたんだなあ。
出された中華料理が口に合わなかったのか、
むすっと箸を運ぶ邱さんが思い出される。
何だか夢みたいだ。

よく「Qさんの本で最初に読んだのは?」と
聞かれるが、はっきり覚えていない。

20代前半から、古本屋で買っていたのは
PHP文庫の軽いものばかりだったと思う。
「お金持ち気分で海外旅行」「野心家の時間割」
「40歳からでは遅すぎる」「死に方、辞め方、別れ方」

年上の人から「こんな考え方もありますよ」と
教えてもらっている感じ。

他の作家は3冊ぐらいで大体得意分野がわかって、
次は背表紙を見ただけで内容が想像つき
「もういいや」となるのに
Q作品だけは、そうならなかった。

むしろ、自分が実際に邱さんと同じ体験をしたとき、
例えば旅行に行ったり株を買ったり不動産を買ったりしたとき
「こういうことだったんだ」と改めて読み直したり、
また、不動産なら不動産でいろいろ読んでも
結局最後は邱さんに帰ってきてしまうので
いつまでたっても「もういいや」とならない。

それだけなら私は熱心な読者だったが
ハイQが始まってから、邱友会に参加し
三全公寓にとまり、種字林で書を買い
果ては天仙液や絶世美女まで求める
大変熱心な読者になった。

毎日更新されるHPの影響の大きさもあるが
ハイQのつくり方もあるのだろう。

邱さんぐらいになると周囲を知り合いだけで固めても
おかしくないのに、
なぜか門戸を広く開けて
一緒に仕事をして、ご飯も食べようと誘ってくれる
不思議な神様なのだ。

玉村豊男さん著「邱永漢の予見力」を
読んだ。

最初、タイトルを見たとき、
過去に邱さんが行ったさまざまな提言で
実際に実現したもの、しなかったものを
集大成した本かと思っていた。

読んでみると、全く違っていて、
邱さんが、将来の中国社会の変化、
例えば豊かになると牛肉を初め
食べ物、飲み物の嗜好が変わると予想して
事業化しているものの数々が
紹介されていた。

中村さんの丁寧な書きぶりに
読んでいる私も邱さんと一緒に中国を飛び回り、
現場の社長さんの説明をふむふむと聞き、
牧場に行って子牛を眺めたり
ワイナリーでワインを飲んだり
コーヒー園で豆をより分けたりしている
気分になってくる。

乳牛のオスを穀物で育てて肉牛とするのは
日本人の知恵だとは知らなかった。
「三元交雑」という難しい言葉も初めて知った。

私もことし考察団に参加したが
8泊9日で4カ国を回るハードなものだった。
でも、自分の倍近くも生きている邱さんが
同じ旅程をこなしているのだから
泣き言は言えない。それは
参加したみんな同じ気持ちだった。

参加した人は社長さんとか、
仕事のヒントを探しに来ている
人が多かった。
私の立場はどちらかというと「追っかけ」で
一緒に旅行をしているだけで嬉しい。

また行きたいが、行けるだろうか。
もう一度この本を読み直しますか

この秋、テレビで見た二つの特集。
「ベルリンの壁、崩壊から20年」と
「天皇在位20周年」。

そして私が社会に出て20年だ。

全部20年なので
歴史の流れと自分の実感と
重ねて振り返ってみる。

「1989年が一つの節目で、
冷戦終結、昭和の終わりと、
ここからがらっと時代が変わってきた」と
コメンテーターが言うと
大げさじゃないのと思う。

私を含め、同年代の者は
冷戦時代は子供でわからないし、
自分が社会的に目覚めたころに
壁が崩壊したので
「簡単だなあ」と思っていた。

今なら、北朝鮮と韓国が統一したら
同じように若い子が「簡単だなあ」と言って
私を驚かすだろう。

社会に出たときは
まだバブルの温もりが残っていて
就職も楽だった。
バブルの後始末より、
恋愛やおしゃれが関心事だった。
パソコンもないし、人間関係も濃くて
のんびりしていた。

そういえば、この間、新聞に
「そのころはまだのんびりしていて」とあって、
「そのころ」が10年前だったのに驚いた。
のんびりしてたのは20年前という
自分の実感からずれていたからだ。

現在はいつでも世知がらいもので
過去はいつでものんびりと見えるのだろうか。

世知がらい今も、やがて
「のんびりしていたあのころ」と言われる運命だ。
だったら、できるだけあくせくしない方が
いいような気がする。

ところで、コラムを書くようになって
パソコンの前でする作業が一つふえた。
前はメールを書くとか
ネットサーフィンとかだけだったのが
文章を書いたり、その準備。

このもろもろを称して
何と言えばいいのだろうか。
一つ一つ目的に沿った言葉しかない。

農業なら「土いじり」という便利な言葉がある。
「趣味は、土いじりです」と言うと
草取りをしたり、土を耕したり
種をまいたりという、もろもろを含んでいる。

パソコンは新参者だから
その辺の言葉がない。
「機械いじり」とはニュアンスが違う。
「パソいじり」だろうか。
「日曜は、パソいじりなんかやってます。」
語呂がいまいちだ。

「〜いじり」と言うと、テレビを見ると
否定的なニュアンスもあるのが
もったいない。

だれかいい表現を知ってたら
教えてください。

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