ときめき☆道楽(文月)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

2011年01月

ことし最初の能、東北(とうぼく)を見ました。
あらすじは、こんな感じ。(超約)

——旅の僧侶が、東北院という寺の梅について尋ねると、
寺の者は「和泉式部」という名だと言う。
里の女が出てきて、梅のいわれについて説明した後、
自分こそ梅の主と名乗り、消える。
夜、僧侶が読経していると、和泉式部の霊があらわれ
様々に語った後に舞を舞うと姿を消した——

とまあ、何かつかみどころのないお話なのです。

動きも余りないし、何言っているかわからないし
せっかく謡の先生がシテをされているのに、
睡魔が襲ってきました・・・

後日、先生との会話。

「つい意識が遠くなりました」と素直に言うと、
先生のお言葉。

「東北は、話に起伏もないし、舞も静かだし、
見る方も我慢、演じる方も我慢の能なのですよ。

和泉式部という高貴で業の深い女性、
今で言う瀬戸内寂聴さんみたいな人と言うと
わかりやすいでしょうかね、
そんな女性でも仏教の力で救われるのだと、
女性を仏教に取り込むために一役買っている能なのです。」

恥ずかしながら私は、
和泉式部について全く知識がありませんでした。
業の深い女・・・何だか俄然、和泉式部に興味がわいてきました。

ネットで調べてみると、和泉式部は、平安時代の歌人で、
橘道貞と結婚して娘を一人産んだ後離婚、
冷泉天皇の第三皇子、為尊親王と熱愛のため実家を勘当され、
彼の死後は弟の敦道親王の寵愛を受けた。
そのため、敦道親王の正妃が家出、という
確かに愛憎に振り回された人生を送っているのです。

百人一首の「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
 今ひとたびの 逢ふこともがな」もつくっています。

でも、これだけだと全然具体的じゃありません。
こういうときは小説を読むに限ります。

だれか和泉式部を題材に書いていないかなと探すと、
何と、瀬戸内寂聴さんが瀬戸内晴美の名前で書いていました。
業の深い女は私に任せろとでも言うように。
タイトルは「煩悩夢幻」

邱さんは伝統芸能のことを「先生の先生がもうかる仕組み」と
どこかに書いていましたね。
大変、的を射た表現だと思います。
しかし、内部に入っていろいろ見聞きしてみると
そのような理不尽な仕組みを維持するには
「先生の先生」である家元にも
相当の人間力がなければ
人はついていかないというのが実感です。
生徒さんは、先生の技量もさることながら、
自分に向けられた関心、愛情を大変厳しく査定しています。
それが余り感じられないと上達もしないので
人は離れてしまうのです。
生まれたときから芸能の世界にいる人は
芸は立派なものですが、
人の心に疎いところがあるのが弱点です。
いつも自分は上座に座っているので
人と人の間の微妙な力学もわかっていません。
また、経済的なことも、同じ年の人より
何歩も出遅れていて、
こんなことで社会人務まるのかしらという感じです。
それでも、うまくスポンサーがつけば一発逆転もあり得るのが
おもしろいところです。
「自分は芸しかできないな」と自覚のある人は
ブレーンをつければよいのです。
本田宗一郎と藤澤武夫の関係のように。
でも、大体気がつきません。
こうやって書いてみると、「先生の先生」というのも、
会社の社長さんと余り変わりがない気がします。
伝統の世界だから特殊なものかと思っていましたが
最後は、人の心がわからなければ
置いてきぼりになるのは一緒ですね。

趣味で踊りを始めて名取りになりましたが、
大変なところに足を突っ込んだなと思っています。

伝統芸能=お金のイメージが定着して
普通の人には敷居が高くなってしまいました。
それが本当かどうか、自分で実験しているようなものです。

お茶や踊りの伝統芸能は、裕福な人が老後に
のんびりと生徒さんに教えるのに向いています。

実家が裕福で、子供のころから始められて
働き盛り、子育てに忙しいときは中断しても
中年以降、またお稽古を再開する余裕があって
老後は自宅で教えるだけのスペース、
本部(家元)とおつき合いするお金もある・・・
こんな人ですね。

地方だと、家が大きいですから
生徒さんを大勢抱えて繁盛している人もいます。

問題は首都圏です。

人間はたくさんいますが、お稽古場の確保が大変です。
公共施設は何カ月も前からほかの人が押さているし
マンションを借りるのも高いし、
自宅の一室を開放するにも、家族にしわ寄せがいきます。

私の先生は、自宅の埼玉のマンションと赤坂の
2カ所にお稽古場がありますが、
赤坂の方は、月謝がほとんど残らないそうです。

場所の確保が大きな課題なのは、首都圏だったら、
踊りに限らず、空手とかダンスも同じです。
皆さんどう経営しているのでしょうか。

場所代を捻出するには生徒を集めなければいけない、
大勢いると、自分以外の講師が必要になる、
すると、また人件費が必要になる・・・

本業で教えようとすると大変ですから、
本業が別にあるとか、
定年後に先生をやるのがいいのです。

芸さえうまければ、自然と弟子が集まる時代でなくなりました。
踊りと経済的な安定と車の両輪でいかなければ
これからは何もできません。

経済基盤と自分の努力は当然のこととして
人を教えるとなると、またプラスアルファ必要でしょう。
本当は、芸能はこちらの方が重要なのですが
今は基盤を充実させる方に必死です。

朝、出勤前にテレビを見ていると、
直木賞、芥川賞選考の舞台となる料亭を取り上げていました。

それは築地にある新喜楽という料亭で、
明治8年創業の堂々たる外観を持った老舗料亭でした。

「直木賞、芥川賞の選考会は、
1955(昭和30)年、第34回からずっとここです。
ちょうど石原慎太郎さんが受賞されたときですね。

当時、文藝春秋社が銀座にあったことから
ここが選ばれたんではないでしょうか。」

事務方の男性が答えていました。

ん〜?石原慎太郎さんが受賞したときといえば、
我らが邱さんも受賞したときですね!
ということは、邱さんの直木賞「香港」も
ここで選考されたんですね!目が覚めました。

ほかにもプチ情報として、新喜楽は
成田山新勝寺本堂や歌舞伎座を設計した
吉田五十八(いそや)が設計したこと、

芥川賞は1階の40畳の広間で、
直木賞は2階の、これまた40畳の広間で
選考されると言っていました。
邱さんは2階か〜。

最近は、報道陣が来るものはホテルが多いのに
老舗料亭で行われるなんて、趣があります。

「選考会はいいけれど、このお座敷で飲んでみたいな〜、
一階でも待合室でもいいから。」
みのもんたさんも言っていました。

ところで、選考会ってどんな雰囲気なんでしょうね。

表面上、和やかな雰囲気ながら、心の中では
「この人の推す人はいつも変なのよね・・・
すぐ売れなくなっちゃうし。」とあきれながら
「この感情は今度の小説に使えるかしら?」なんて
考えているんでしょうか。

まあ、うかがい知ることのできない世界です。
石原慎太郎さんも、今や選考委員ですね。

邱さんは、直木賞を取ることで、また新しく人生が展開しました。

石原さんじゃないですが、「東京の季節」とでも

名づけたらいいような、その後の分厚い邱さんの活躍を

つらつら思い返したり、いろいろ想像していると、

何だかたまらなくなって

きょうは仕事を休んで築地の新喜楽を見に行こうかなと

思うのでした。





3連休の中日は踊りの新年会でした。
名取りになって初めての新年会です。

久しぶりに着物を着るので、前日、練習をして、
「何か違うなー?」と思ったら、合わせが左右逆でした・・・
何ですぐ忘れちゃうんだろ。

問題は帯です。
鏡を見るために、首をひねったり腕を後ろに回したり、
かなり無茶な姿勢。
こんなとき、だれか手伝ってくれ〜と痛切に思います。

「着物って面倒でしょ?」と言われますが
ふだん着程度のものだと大変じゃないです。
でも、絹のいい着物だと、汚したら大変と気も使います。

恐らく昔の人は、いい着物をお召しになる方々は
おうちにお手伝いさんの1人や2人いて、その人が
着つけとか、汚れの後始末とか、細々したことは
全部やってくれていたんですよ。
現代の人はお嬢様役もお手伝いさん役も
全部1人でやるから「面倒」と感じるんじゃないかな。

なんて考えているうちに帯ができあがりました。
ここで問題発生!帯枕に帯揚げがかかっていない・・・
右側はかかっているのに、左側は帯枕丸見えです!
「た、助けて〜!」
寝ている夫をけり起こして、助けを求めましたが
「え?何、どうすればいいの?」とあたふたして
頼りないことこの上ない。
着物に関しては日本語が通じません。

後日、着物好きの友人にこの話をすると、
「そうそう!帯板を忘れたり、何か忘れちゃうんだよね〜」と
盛り上がりました。

そういえば、林真理子さんが何かのエッセイで
地方に行って着物を着る機会があったが
帯締めを忘れたので、ホテルの部屋の電気器具の
コードをかわりに締めておいたら
だれも気がつかなかったと書いていたけど
本当かなあ?

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